桔梗屋 御朱印の旅

神社ばかりお参りしてまわっております。戴いた御朱印が多くなってきたので、管理がてら公開します。御朱印以外の話も多いかも

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【神宮月間】神宮と仏教の関わり

神仏習合神仏分離の先駆け】

現在の神宮を参拝していると、仏教の香りは全くかんじられません。建築はシンプルで最も伝統的かつ日本的な神明造りです。これは歴史の教科書などでよく見る、高床式倉庫のような形をしています。寺院や神仏習合などを彷彿とさせるような、煌びやかな彩色や彫刻、瓦屋根などは一切見当たりません。しかし、そんな神宮でも仏教の影響を受けていた時代がありました。

 飛鳥時代の698年には神宮寺が建立され、奈良時代東大寺建立の際には神宮で祈祷が行われるなど仏教の日本伝来とともに神宮にもその影響が現れ始めます。

ところが、820年に定められた「弘仁式」の「伊勢太神宮式」の中で仏教と分離することが定められます。仏教用語を禁止する神宮独特の忌み言葉も定められ、神宮に関わる人々は仏教儀式や僧侶との接触が禁止されました。キリシタン大名神道を重んじる水戸学を確立した徳川光圀など、一部の支配者による仏教弾圧を除いては、全国的に神社が仏教と分離したのは大政奉還後の神仏分離令が発せられてからですので、神宮は1000年以上も時代の先を行っていたということになりますね(笑)

 この事実によって「神宮はいち早く仏教を取り入れ、いち早く別離した」という人もいるようです。

式年遷宮を復活させた僧侶 慶光院上人】

時代が下ってくるとだんだん寛容的になって来るというか、お坊さんが夜中にこっそり参拝にやってきたこともあったようですし、1275年には内宮の「風日祈宮」と外宮の「風宮」が神風によって別宮に昇格したことをうけ、法楽舎という仏教建築の祈祷所を設けたりと次第に仏教とのかかわりが復活してゆきます。

中でも特筆すべきは応仁の乱によって途絶えた式年遷宮を復活させた尼僧の存在です。1462年の第40回式年遷宮の5年後、応仁の乱がおこり時は戦国時代に突入します。混乱により式年遷宮は100年もの間途絶えて屋根を葺き替えることさえできませんでした。慶光院は伊勢にある臨済宗の寺院ですが、お堂と神宮の祠があるだけの非常に小さな尼僧のためのお寺だったようです。慶光院上人とはこの寺院にいた神宮式年遷宮復活に貢献した複数の尼僧の総称です。初代院主の守悦上人は洪水で流された宇治橋を建て替えるために寄付金を集め、第三代院主の清順上人も豊受大神宮遷宮のために諸国を行脚し11年もかけて寄付金を集めました。清順上人は外宮遷宮が成ると内宮の式年遷宮に着手しますが叶わず亡くなってしまいます。後を継いだ第四代院主周養上人は帝や織田信長豊臣秀吉などの力を借りて22年前に清順上人によって遷宮されていた外宮、長い間荒廃していた内宮を両宮同時に遷宮させました。外宮は清順上人により130年ぶり、内宮は周養上人によって123年ぶりに遷宮され、以来20年に一度の遷宮が復活したそうです。

伊勢神宮: こころを照らす神々の都

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2019年 伊勢神宮カレンダー 神宮美景

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