桔梗屋 御朱印の旅

神社ばかりお参りしてまわっております。戴いた御朱印が多くなってきたので、管理がてら公開します。御朱印以外の話も多いかも

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【神宮月間】御師ってなに?

昨日、神宮大麻について書いた記事で「御師が御祓大麻を頒布したのがはじまり」という話を紹介しました。この「御師」ですが、実はとても苦手なところでして、実際どんな人で何をしたのか、ぼんやりとしか理解できていません(笑)

今日は確認の意味もこめてこの御師について調べていこうと思います。

御師とは】

全国各地の崇敬型神社で、主に遠方の信者の参拝や宿泊を世話する人のことです。「おし」とも呼ばれますが神宮では「おんし」といいます。人々に御神徳を説き、ツアーを組んで参拝を助け、さらに自身の家を宿泊場所として提供します。遠隔地には自らお札を頒布しに行きます。

御師のはじまり】

御師の始まりには政治が深く関係しています。もともと古代の法典である『延喜式』のなかで神宮は私幣禁断と定められていました。そのため神宮は租税によって維持されていました。公地公民(全ての土地と人は天皇国家のものであるので税を納めなければいけない)時代ですね。ところが、力を持った貴族などが私有地を保持しはじめたため公地公民が次第に形骸化し、国に税が入らなくなってしまいます。そこで神宮では10世紀ごろから高位の神職である禰宜たちが自ら地を開墾し御厨、御園などをつくって神宮を支えました。12世紀、平安末期になると武士が神宮の権威によって自分の領土を守るため、土地を御園として寄進し、神宮が土地のオーナーで武士が経営者という関係が出来上がります。このような土地には神宮の分社が祀られ、神宮と庶民の間につながりができました。しかしまたここで神宮に困難が訪れます。鎌倉時代に入り力をつけた武士はオーナーに年貢を納めることをやめました。残ったのはもう庶民との関係だけです。神宮は庶民から寄進を得るため、権禰宜たちを取り次ぎ役として各地の御厨を回り、寄進を受けるため神宮の御神徳を説いて回りました。この権禰宜たちが「御祝詞師」おんのっとし「御祈祷師」おんきとうしと呼ばれ、これを縮めて「御師」と呼ばれるようになりました。

 【御師の活躍と衰退】

御師はその成り立ちから、比較的身分の低い神職であったようです。

公家や武家などは身分の高い神職御師を務め、庶民層は権禰宜以下の神職御師を務めました。庶民層を対象とする御師は担当地区を決めて家々に「御祓大麻」を配り歩きました。江戸時代になると60年ごとに爆発的に増えるお蔭参りの影響で内宮出身の御師は300軒余り、外宮は500軒余りまで増加しました。

明治維新後、神道が国家宗教の扱いを受けるようになると、神祇制度が整備され、神宮は再び国家の財政によって管理されるようになります。また、神祇官がおかれ、神職を平民から明確に区別するため、御師が廃止され平民に編入されました。

 

 

大人の伊勢神宮 - 幾度となく訪れたい、心の旅 -

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ことりっぷ 伊勢・志摩

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